好きと嫌いは表裏一体?意見を持つときこそ感情的ではなく理性的に。

先日こんなツイートを見かけてちょっと考えさせられましたので、自分なりの考えをまとめようと思います。
【大嫌い】という感覚・感情は、【大好き】になる可能性を大いに秘めています。
嫌いという感情は沢山のエネルギー(主に神経伝達物質)を浪費して行きますから、手を出さずにい続けても身体は本来のポテンシャルを発揮出来ぬまま終わる可能性が非常に高い。
続く
— takumi inagaki (@takumi_inagaki) November 13, 2018
ツイートされたtakumi inagakiさんはボディービル業界の方で、業界の一部で使用されているアナボリックステロイドについてのツイートのようです。
ボディービル業界の闇
アナボリックステロイドはオリンピックなどのドーピング検査が実施される競技では使用が認められていない薬物の一種です。ボディービルの一部ではその使用が長い間暗黙の了解として見過ごされてきました。そのため薬物を使用していないナチュラルの選手のなかにはアナボリックステロイドに対して強い否定的な感情を持つことあります。
僕自身も、以前コンテストを志してトレーニングしていたこともありボディービルでの薬物使用問題に関心があります。そして、薬物使用を明言せずに活動する選手の影響でナチュラルとユーザーの線引きが曖昧になっていることに対して強い不満を感じていました。
そんな中、上のtakumi inagakiさんのツイートを目にして、感情的になって物事を批判することについて考えるきっかけになりました。
大嫌いが大好きに?
takumi inagakiさんは後に続けて自身が薬物を使用することを嫌っていたのに、後に好んで使用するようになったことを告白されています。
使ってたまるものかと思っていました。ちなみにトレーニングは15歳から開始しています。
22歳に差し掛かる頃には大っ嫌い!が、大っ好き!になりました。
クスリに手を出さない方や、手を出してもやめられる方は、そもそも何も感じていないのです。その点については恐らく恋愛と同じです。
— takumi inagaki (@takumi_inagaki) November 13, 2018
僕自身も薬物使用に関しては現時点で強く否定的な感情を持っているのですが、(経済状況等が改善してトレーニングを再開するようになった時)それが転じて将来的に使用したりするのだろうかと不安になりました。
自己分析してみると、自分が嫌いなのは薬物使用そのものというよりも薬物使用を取り巻くアンフェアな状況です。ドーピング検査が実施される団体で薬物を使用して競技に参加することや、薬物を使用していることを隠すことでナチュラル、ユーザー両方の価値が減ることです。(ナチュラルで頭角を現せば薬物使用を疑われ、ユーザーは薬物を使用すれば誰でも彼らの身体が作り上げられると思われがちという印象を受けます。)
薬物そのものというより、それに伴うアンフェアな状況に対しての不満を持っている僕が将来的に薬物を使用することはないと祈ることにします。
ボディービル業界の薬物問題の是非はさておき、ここで話題にしたいのは、感情的になって物事を批判することの問題です。
エスカレートした正義が悪に?
人間自分が正しいと思うとついつい気持ちが大きくなって、感情的に他者を批判してしまったりしがちです。エスカレートした正義はまた別の悪になっていることもあるものではないでしょうか。
個人的には、最近フェミニストと自称し活動している人達の中にそういったものを感じることがあります。彼らは男尊女卑に対して、男女平等を求めて活動していると理解しているのですが、女性の権利を主張するあまり男性の権利を侵害してしまっては本末転倒です。
そもそも名前としてもフェミニストではなく男女平等主義者(英語ではなんと言ったらいいですかね?)といったものであるべきではないでしょうか。
現在の世の中が男尊女卑であるなら女性の権利を主張することは正義だと言えそうですが、男女平等が達成された後の活動は逆に”女尊男卑”を助長する悪になります。
何かを主張するときは、感情的になるとついエスカレートしてしまいがちです。きちんと根拠をもって理性的に意見を主張できるようになりたいものです。
明日は我が身
引用しているtakumi inagakiさんのツイートを目にしたときは正直ヒヤッとしました。ボディービル業界の薬物使用についてはかなり厳しい意見を持っていたので、プライベートではかなり熱くなって批判していたのです。
フェミニストの例のように、自分の考えも感情的にエスカレートして歪んだ正義になっていたかもしれません。
改めて、意見を主張するとき、批判するときこそ理性的になるように注意したいと思います。